ホームズ像管理委員会 軽井沢町追分、庚申塚公園内に立つシャーロック・ホームズ像は1988年10月に建立されました。なぜ追分の地に建ったのか、誰が建てたのか、といった事情等についてはそれほど知られてはいないことでしょう。また、誤解もしばしばあるように見受けられます。多くの関係者が世を去り、また高齢化する中、正しい情報を遺しておく意味で、簡単に経緯を記しておくことにします。 イギリスの作家サー・アーサー・コナン・ドイルが書いたシャーロック・ホームズ物語(長篇4篇、短篇56篇)のすべてを一人で日本語訳したのは延原謙が最初でした。その延原謙は戦後、油屋旅館を訪れてそこで仕事をすることが多かったのです。そして、やがては1958年、この地に山荘を建て、「ホームズ庵」と名付けました。シャーロック・ホームズ全訳は1952年に出版されており、それを改訂した版も1955年には完成しているのですから、「ホームズ庵」で全訳を完成させたというのは正確ではありません。しかし、信濃追分は延原謙が毎夏を過ごしたゆかりの場所であることは確かです。それがシャーロック・ホームズ像をここに建てた理由なのです。 日本シャーロック・ホームズ・クラブ(以下JSHC)は1977年に創立されました。創立初期から毎年2回の全国大会を開くなどの活動をしてきましたが、JSHC主宰者である小林司・東山あかね夫妻が毎年夏季に当地に滞在することから、1987年軽井沢町内(原則)で軽井沢セミナーを開催することを始め、現在も継続しています。 第1回は1987年8月に油屋旅館を会場として行われました。その席で、JSHC会員の一人である松下了平が当地にホームズ像を建てることを提案し、参加者一同の賛同を得ました。 この提案を踏まえて小林司・東山あかねが関係者と折衝した結果、実現に向けて動き出すこととなりました。 JSHCではクラブの活動として共同執筆・共同翻訳に参加した会員に建立事業の発起人になることを打診し、大多数の許諾を得ました。発起人代表には英文学者の小池滋が選ばれました。 1987年11月にはシャーロック・ホームズ登場100周年、JSHC創立10周年などを祝う「大祝賀会」が開かれ、その場でシャーロック・ホームズ像建立の正式な提案がなされます。しかし、これに対しては、別の事業案も出されて全員一致での賛同を得ることはできませんでした。そこで、以後JSHC内の有志による事業との位置づけで進められることとなりました。 事業推進のために、JSHC内に「ホームズ像建立委員会」が設けられ、次の9名の会員が委員となりました。 植田弘隆、小池滋、小林司、実吉達郎、玉村美佐子、中西裕、東山あかね、松下了平、松村喜雄 (小池、小林が共同代表) いっぽう、像の原型製作を東京藝術大学大学院出身の彫刻家、佐藤喜則(現・野渡喜則)に依頼、完成に向けて製作が開始されました。 建立地をめぐっては紆余曲折があったものの、小林・東山と軽井沢町との間での度重なる折衝により、庚申塚公園内に建立する決定がなされ、1988年8月15日、軽井沢町長・佐藤正人とJSHC主宰者/ホームズ像建立委員会代表・小林司との間で土地使用貸借契約が結ばれました。 建立に必要な資金を得るため、JSHC会員のみならず、日本推理作家協会、関係出版社、その他一般への募金要請も行われました。 目標額には及ばなかったものの、多数の個人や団体からの募金が集まり、製作者や、工事を担当した内堀建設など、関係者の熱い思いと犠牲的精神により完成されました。 除幕式の準備は以下のメンバーで構成された除幕委員会の手によって進められました。 市川恵美子、大坪利恵、岡部昌幸、北原尚彦、佐藤明美、田中喜芳、平林泉、山巻由美子 シャーロック・ホームズ像除幕式は1988年10月9日に行われました。小林司が建立までの経過説明を行い、シャーロック・ホームズ像を「正義、友愛、公平の精神のシンボルにしたい」と結びました。その後、飯島喜典軽井沢町教育長(町長代理)、小川貢追分区長、柳沢薫教育委員長、小池滋、小林司の5人の手によって除幕されました。 シャーロック・ホームズ像はこのようにして、JSHCの会員有志を中心とし、日本推理作家協会会員、出版社、一般市民からのものも含めた募金によって建てられたのです。発案者は松下了平であり、中心になって推進したのは上記の人たちです。なかでも製作者佐藤喜則と小林司・東山あかねの献身的努力、そして軽井沢町の深い理解がなければ完成されなかったと言ってよいでしょう。 (文中敬称略・肩書は当時・委員は五十音順 2022.9.1記) |